白々とした光だけが闇色の空を犯し、星々の輝きを食らっていく。朧な薄雲が、紅い影を生み出しながらだらだらと解れ漂っていた。光源たる太陽はまだ、ゆるやかな影を描く東の山の向こうに隠れ、その姿を現してはいない。空の色だけがゆっくりゆっくり時間をかけて闇から灰から白へと染め上げられていくさまは、どこか非現実的で異様な雰囲気すら感じられる。
肺いっぱいに吸い込んだ乾いた空気は、朝特有の冷たさを持ってはいなかった。かといって、あたたかいわけでもない。酸素濃度の薄い空気を吸ったかのように、どこか息苦しく感じられた。
見上げた空に風は亡く、音も亡く。すべてが死んでいるような、夜明けだった。惰性、一握りの命。そんな言葉ばかりが脳裏に浮かぶ。壊れかけた世界は今まさに、完全に壊れようとしている。
これが最後の朝だといわれても、なんの疑いも抱けなかった。
長らく空の白さを眺め続けていたせいだろうか。暗い室内を振り返り、踏み出した一歩が、しかし視覚が闇に順応しきれていなかったため、少しばかりふらついた。
すぐ横にあったベッドの上に、ロックは半分倒れ崩れるような形で片膝をついた。が、改めて体勢を立て直して立ち上がるでもなく、彼はそのままベッドにごろりと寝転がった。薄暗い天井の、明かりなき灰色の壁紙だけが視界いっぱいに広がる。つまらない光景だ。しかし、窓の外のそれと大差ない。
そのまま二度寝するような気分でもなく、ロックは眼だけを閉じると、しばらくベッドの柔らかさに身をゆだねることのみに集中した。布団の感触は、いつも泊まる宿屋や飛空挺の個室内にあるベッドのものよりも、ずっと上等なものだ。だが、寝心地は最良とまではいえなかった。いや、単純に昨夜の彼が眠れるような気分ではなかっただけなのかもしれないけれど。
しかし、きっと。昨晩の乱痴気騒ぎとも呼べるような酒盛りの後、今日のこの日に備えて十分に休めるよう一人一室ずつ与えられた部屋にそれぞれ帰っていった他の仲間たちもまた、きっとまともには眠れなかったのではないだろうか。なんとなく、そんな気がした。
ぱちりと眼を開け、上半身を起こす。壁で静かに時を刻む古時計は、まだ朝の五時を示していた。出発までの時は、まだまだ長い。
最後になるかもしれないこの時間を、何に費やせばいいのか。彼にはよくわからない。ただただ、惰性のように時間を潰し続ける。やるべきことも考えるべきことも、きっと山のようにあるはずだ。けれど、全てできる気はしなかった。こんな気分で手に付くことなんて、きっと何もないのだろう。
「・・・・・・・・・・・・」
そ、っと。
大切なひとの名を、心のなかだけで呼んだ。今はここには居ないひと。かつて彼が愛し、全てを捧げると誓った、彼女。
(もうすぐ、終わるんだ)
彼の言葉を聞き遂げる耳を、聴覚を、命を既に失ったひとに、そう告げる。そこには何の意味もないのかもしれない。彼の心を、整理する以外には。
もうすぐ終わる。
これで最後。
夜が明ければ、彼は仲間たちと共にかの地へ向かう。
全てを壊そうとする、狂った道化師を止めるために。この世界を救うために。
しかしかつての彼にとっては、世界の行く末などはどうでもよかった。世界のためだとか、自分のような人間を増やしたくないだとか、綺麗な理由はたくさん並べ立てたけれど、その実、彼がここに至った本当の理由は、そんなものではなかった。
ただ、憎しみのために、悲しみのために、何かを壊すことで愛するひとを失った復讐を遂げたいだけだったのだ。
それが、はじまりで。
ああもう、本当に。こんなに自分のことばかり考えている人間が世界を救おうだなんて、まるで笑い話だ。でも、色々なことがあった。ほんとうに、色々なことがあって、色々な出会いがあって、彼は少しだけ変わった。
きっと、彼女が望んでいる方向へ。きっと、彼も望んでいた方向へ。
けれど、それは。
「・・・・・・・・・・・・ん」
ふっと。
思考を取りやめ、顔を上げる。
誰かの気配を、感じた気がした。別に職業柄の特殊能力が成せる技というわけでもない。有機物も無機物も息絶えかけているこの世界では、はっきり生きているものの存在を誰もが特別感じやすい。
(・・・・・・皆も起きたのか?)
その可能性は高いだろう。が、壁をいくつも隔てた他の部屋で誰かが動いたのを感じられるほど、ロックの感覚は優れてはいない。
視線が自然向いたのは、宿の廊下とを繋ぐ一枚の扉だ。壁とは違い、音を通す、分厚い木の板。安宿のそれとは無論比べ物にならないほどに上質だが、しかし多少なりとも音を通せねばノックの音すら聞こえなくなってしまう。
誰かが廊下にいる。そして、何やらうろうろと徘徊している。謎の不審者になんとなく興味を引かれ、ロックはベッドから立ち上がった。足音を立てずにドアへと忍び寄り、そしてぴたと立ち止まって少し考えた。
さて、どうしてみよう。結論は早かった。開けてみるまでだ。まさか開けた途端、ドカンということもあるまいし。
硬い金属の音をさせてノブを捻り、手前開きのドアを勢いよく開け放つ。
すると。
「ひゃっ!?」
相手を視認できるよりも早く、急な音と出来事に驚いた高い声が、まず彼の耳を劈く。
聞き覚えのある声。当然だ。開いた戸の、すぐ眼の前には、まさに彼の部屋を訪問直前といったふうなティナ・ブランフォードが、その大きな瞳を丸々と見開いて立っていた。
一瞬、どう反応していいものなのかわからず、ロックはぽりぽりと頬を掻く。
ある意味予想していたというか、そんな光景に、そこまで驚きはしなかった。きょろきょろと廊下を見渡し、彼女以外に誰も居ないことを確かめる。
「・・・・・・ティナ、一人なんだよな? 何やってるんだ、廊下なんかで」
「え、あ・・・・・・」
まだ衝撃が残っているのだろう。何をしていたのかという、その問いに対する答えすら忘れてしまったように、ティナは口をぱくぱくさせる。そして少しの沈黙と、小さな深呼吸を挟んでから、ようやく落ち着いた彼女は、胸元に手を置いて安心したように口元を緩ませた。
「・・・・・・その、ロックにお願いがあって、出てきたの。でもまだ早いし、寝てるんじゃないかってここに来てから気付いて・・・・・・」
「それで、困ってうろうろしてたんだ」
「うん・・・・・・え、どうして知ってるの?」
廊下をうろつく不審人物の気配を彼がずっと感じていたなど、ティナには予想もつかなかったのだろう。ぱっと頬を赤らめて、慌てたように眼を泳がせるさまがかわいらしく、ロックは思わずくつくつと笑いを漏らす。
「え? え??」
やっぱり理解しきれていない様子のティナを前に、笑いがおさえられない。張り詰めてぴりぴりしていた神経が、彼女を前にすることで随分と落ち着いていることを感じる。やっぱり彼女はどこまでも、彼にとって変わらず揺るがぬ確かな存在だったから。
今までは。
きっと、これからも。
「いや、ごめんごめん。・・・・・・それで、俺にお願いって?」
「あ、うん。そのね」
見てみればティナは、既に身支度をほとんど済ませているようだった。他人の部屋に来るほどなのだから当然ではあるが、うっかり寝ぼけ眼で出迎えるようなハメにならなくてよかったなとロックは内心胸を撫で下ろす。意識的に早起きしようとしたわけではなく、結果的にこんな時間に目覚めてしまったのだが、ある意味でそれこそ正しかったのかもしれない。
「これ、でね」
後ろ手に持っていたものを、ティナは差し出した。彼女の白い掌の上に乗っているそれに、ロックは見覚えがある。いつのことだったか、彼が彼女にプレゼントしたリボンだった。そのリボンは彼が贈った最初のプレゼントで、だからこそなのかそんなことは関係ないのかは知らないが、ティナはとても大切にしていた。毎日のように、宝石を溶かしたような不思議な輝きを放つ彼女の髪を飾るリボンを観ることができたほどだ。
「ロックに、髪を結ってほしいの」
身支度はほとんど済んでいるにも関わらず、その長い髪だけはいつものように結わずに背中に垂らしたままのティナは、そう言って笑った。
まだ暗い時間帯、狭い空間に男女二人きりという状況に道徳的問題を感じ、悩んだのは少しだけ。
しかし朝は朝なのだからと高をくくり、ロックは薄暗い部屋に彼女を招き入れた。
「・・・・・・言っておくけどな、ティナ」
使い慣れない毛の多い大きなブラシは、ずっしりと重たい。こんなもので日々髪を梳いている女性の苦労を思うと、実に恐れ入る。
「ほんとに自信ないぞ」
慎重に、壊れ物を扱うように、丁寧に、ブラシを動かしていく。ブラシの歯が髪間を梳くたびに、ゆっくりと明るくなっていく室内で、彼女の髪は青く輝いた。
「うん」
鏡のなかのティナは、嬉しそうに首肯した。しかしそれはロックの言葉に納得したというよりも、彼の腕をどこまでも信じているからこその笑顔。そこにつっこみたい気持ちはあるものの、結局ロックは諦めたように嘆息し、改めて己の作業に集中することにした。
自分の髪を結うならば、少なからず経験もある。が、それが他人のものになっただけで、どうも勝手が違い、ある程度纏めては解いてを繰り返す。自身の髪より他人の髪を結ぶほうが簡単だよと言っていたのは、エドガーだったか。しかしもともと不慣れな作業に加え、髪の主に対する気遣いや気後れが心の中で発生してしまうと、なかなか上手くいくはずもない。簡単なポニーテールを求められているだけだというのに、完成する気配は見えてこなかった。ロックのものより、ティナの髪のほうがずっと長いということも、また慣れずやりにくい原因のひとつだ。
背後で四苦八苦しながら髪と戦っているロックの姿を、ティナは鏡ごしに見つめる。双眸を細め、大切なものをいとおしむ様に、一瞬たりとも眼を離さない。
視線に気付いたロックが、ふと手を止める。鏡の中で、二人の視線が交差した。
「どうした?」
「ううん。なんでもないの」
にっこりするティナは、いつもと同じ。不自然な部分なんて、少しも無い。
更に口を開き、何かを問いかけようとして、でもロックはやめた。
「・・・・・・よし」
一呼吸挟んで、何事も無かったように作業を再開する。
ティナの髪の量は、長さもあるが、ロックのものよりもずっと多い。片手で上手く扱うことができないなか、時間をかけてなんとか形にし、細かくブラシで修正していく。
ある程度納得いったところで、鏡でもチェックをしてポジショニングを再確認した。歪んでいたり、左右に寄っていたりといった問題は特になしと判定し、ようやくゴムを用いて髪を結ぶ作業に移行する。
ここに至るまでで、どれだけの時間が経っただろう。白ばんでいた空は確実に朝の色に変わりつつあり、始めたときは薄暗かった部屋にも、弱々しい日の光が差し込み始めていた。こんなに時間をかけて髪を扱う経験なんて、もちろんこれが生まれてはじめてだった。もしこれが自分の髪なら、彼はもっと適当に済ませる。けれどもこれは他の誰でもない、彼女の髪なのだから。
翠の髪。
この世でたった一人、ティナ・ブランフォードだけが持ち得た魔性の色。
その意味はあまりに美しく、辛く、残酷で。
「ね、ロック」
彼女の呼びかけに、どきりとする。
彼女のことば。彼を呼ぶ彼女のこえ。それは途方もなく甘美な響きをもって、彼の耳を擽った。
作業する手を、止めることはしない。視線はあくまでも、自分の手元に。けれど視界には、鏡にうつった彼女の姿が常にある。
「・・・・・・ん?」
答える声が少しだけ上ずった。不安定になっていた心を見透かされたような気が、していた。
視界の端には変わらぬ微笑。いつもと同じ、ずっとずっと変わらなかった、彼女のえがお。
鏡のなかの少女は、ゆっくりと眼を閉じて。
「わたしね。ロックに会えて、よかった」
幸せそうに微笑みながら、そんなことを口にした。
するり、と。
手の中から一房の髪が零れ落ち、彼女の肩を滑り落ちていく。
まるでナニカのように。
さらさらと。
留めようもなく。
せっかくここまで仕上げたのに、失敗してしまったことについて、ティナもロックも何も言わなかった。そのまま互いに視線ないし言葉を交わすでもなく、ロックは黙々と髪を纏めなおしていく。
二回目ともなれば少しは慣れてきたのか、作業は存外上手くいった。生来の器用さも味方したのだろう、驚くほどの速さで、さっきとほぼ同じ状態にまで修正し終える。せっかく作り上げたポニーテールの形態を崩さないようにゆっくりと、美しい彼女の髪を傷めないようにゆっくりと、ゴムで縛った部分に、青いリボンを巻きつける。さすがにリボン結びまでは、そうそう失敗しない。
完成、した。
艶やかな髪の色は、エメラルドグリーン。髪を彩る青いリボンが、彼女の微かな動きにあわせて踊る。昨日の彼女と、一昨日の彼女と、いつもの彼女とまるで変わらぬ彼女の姿が、鏡のなかにはあった。
結い手が違うなんて、わからないほどに。
「ロック、上手!」
眼を輝かせ、華やいだ声をティナが上げる。
鏡にうつったポニーテールは、見事な出来栄えだった。彼女が自身の手でセットしたものと、なんの遜色もないと呼んでも構わないほどだ。
「わたしより上手かも。ロック、ほんとうにありがとう!」
彼女なのだから、お世辞というわけでもあるまい。よほど嬉しかったのか、ティナは揺れるリボンの端を摘み、首を動かして様々な角度からのポニーテールを鏡で確認している。その、小さな身体を。
ぐい、と、力任せに。
背後から、抱きすくめた。
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はじめまして、アロエと申します
思った以上に長くなってしまい、分割させていただきました(汗
見辛くて申し訳ないです