手から滑り落ちたブラシが床に落ち、甲高い音を響かせて転がっていった。
「っ・・・・・・」
彼女が息を呑んだおとがきこえる。音に驚いたのか、抱きしめられたことに驚いたのか。それとも、別に驚いてはいないのか。
落としたブラシのことは気にしない。どうせ、元々部屋に備え付けられていた備品である。
しんとした部屋で、かちこちと、時計の音だけが妙に五月蝿く耳障りだった。やけに明るい部屋のなか。既に陽は完全にのぼったのか、否か。
「・・・・・・ティナ」
白い肌の露出した、彼女の肩に顔を埋め、名を呼ぶ。びくり、と、彼女の身体が軽く震えたのが伝わってきた。どんな表情をしているのかはわからない。少し顔を上げて、鏡を見ればわかるのだろうけれど。それは、やらない。要するに、向き合う覚悟がないだけだった。
呼んだきり、何も言わない。何も伝えない。言いたいことも伝えたいことも、もう全部告げたはずだった。だから彼は、ただただ彼女を抱きしめ続ける。どこにも逃がさないように、何にも奪われないように。
重たくあたたかい、呪いのような沈黙。
それを打ち破ったのは、彼女。
「・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」
永遠の後の一瞬、か細い声が、そっと謝罪のことばを述べる。
そこに篭る、彼女の感情が、今だけは読み取ることができなかった。
すぅっと心が冷えていき、同時に頭のなかが途方もなく熱くなる。
(やめてくれ)
心の中で、彼は叫んだ。そんな言葉が聞きたいんじゃない。ただ、聞きたくなかった。
『三闘神は幻獣界において魔法を司る神様・・・・・・その神を倒せば・・・・・・』
(やめてくれ)
『幻獣・・・・・・そして魔法がこの世から消えてなくなってしまうかもしれん・・・・・・』
(やめてくれ・・・・・・!)
脳にこだまする、いつかの会話。彼の胸に、どうしようもない絶望を植えつけたことばたち。
だからこそ、聞きたくなかった。別れを感じさせる言葉なんて、聞きたくなかった。せめて、彼女の口からだけは。
嫌だった。
こんなに一生懸命で、こんなに真っ直ぐで、こんなに強くて、こんなに純粋で、こんなに気高くて、こんなに美しい少女が、この世から消えていい道理なんてあるはずがない。
・・・・・・いや。綺麗事を言うつもりなんてない。そんなもの、今更自分に似合わないことは重々に承知している。だからこれは、ただのわがままだ。
ティナ・ブランフォード。
幻獣と人との間に生まれた、奇跡の娘。
幻獣として生きることも、人として生きることも上手く出来ず、やろうとせず、でも必死に自分なりに生きていこうとしていた彼女。罪と罰と出生と血、それら全ての重圧に耐え、あんなにも頑張っていたというのに。
この娘は、幸せにならなければ。
「ティナ」
だから彼は顔を上げて、鏡にうつる少女をまっすぐに見つめた。
名を呼んだ。
「このまま全部放り出して逃げようって言ったら、どうする?」
ああ、我ながら馬鹿なことを言っているな、と。考えるまでもなく、喋りながら、彼は思っている。
それは決して言ってはならないことだ。何の解決にも、ならないことだ。けれど言わずにはいられなかった。
翠の髪をもつ、美しい娘が、鏡のなかで悲しげに眼を伏せる。苦しみに耐えるように、両の拳を膝の上で握り締め、彼女は唇を浅く噛み締めていた。
そのさまを、じっと見つめる。そんな顔をさせてしまうことくらい、はじめからわかっていた。だから胸は痛むけれど、悔やみはしない。
しかし。
「・・・・・・それは、困るわ」
再び彼の眼を見つめ返した彼女の瞳に、迷いの色は無い。
ただ、口元だけが、本当に少しだけ困ったように、微笑んでいた。
「そっか」
軽く言って、彼女に笑い返す。
ショックはない。
全て予想していた。いや、はじめから、彼女の返答はそれ以外にありえないとすら思っていたから。彼女は自分よりずっと強く、大人だから。理不尽な世界をも、受け入れられるひとだから。
「冗談だよ。ごめん」
でも、きっと自分は本気だったのだろう。他人事のように、ロックは思う。
でも、きっと自分にそんなことは出来なかっただろう。己の事として、ロックは思う。
顔は肩に乗せたまま、そっと彼女の髪を指で梳いた。抵抗はされない。口を噤み、動かない彼女は、ただただされるがままになっている。引っかかりなく、さらさらとした髪。その感触を彼女のにおいと一緒に感じた。
この子が消えたら、彼は今度こそ壊れるかもしれない。でも、自分勝手を通し続けられるほど、もう彼は弱くはなかった。不死鳥の力を借りて、一時的に蘇ったレイチェルと言葉を交わしたあの日から、彼の理由は変わってしまったから。
レイチェルのためではなく、自分のためでもなく、ただ大切なひとのために。大切なひとたちのために。
彼女の信念のためならば、命すらも捧げようと誓った。
色々なことがあった。ほんとうに、色々なことがあって、色々な出会いがあって、彼は少しだけ変わった。
きっと、彼女が望んでいる方向へ。きっと、彼も望んでいた方向へ。
けれどそれは、あまりにも辛くて、苦しくて。
白い手が、ふわりと眼の前を横切った。雪のような彼女の肌。彼の頬に、静かに触れる。皮膚を通して伝わるのは雪の冷たさではない。しんしんと感じる、生きるもののぬくもり。かけがえのない、尊い記憶。
「大丈夫だから・・・・・・ロック」
す、と。頬を撫ぜる指先の感覚が、狂おしいほどに心地よかった。
視線は一度も外してはいない。鏡のなかだけで視線が交わり続ける。紫の瞳が、一瞬とても眩くて。
「わたしは居なくならないから。ずっと、傍に居るから」
そう告げる、鏡ごしの彼女。
とてもとても、遠い存在。
「・・・・・・・・・・・・」
ああ、と。
しみじみ感じることができた。
彼女は既に、十分すぎるほど覚悟を決めている。もう彼女は揺るがない。自分にできることなんて、なにもない。
(ごめんな、ティナ)
ほんとに、ごめん。二度三度、心の中だけで繰り返す。ことばにせずとも、きっと彼女はわかってくれる。
最も苦しく、悲しいのは、彼女自身のはずなのに。本来ならば、自分のほうこそ彼女の支えにならなければいけないのに。この子はまだ、二十歳にも満たないようなこどもで。もっと泣いたり、怒ったり、わがままを言って、構わないはずなのに。生きたいと望んでもかまわないはずなのに。
けれど彼女は、彼女の笑顔は、どこまでも透明で、何の望みも抱いていなかった。否。他人の幸せ以外、望もうとしていなかった。
『幸せになりたいと思っても、いいんだよ』。
罪に苦しむ記憶喪失の女の子に、そう告げたのは、とても昔のはなし。まだ何も知らなくて、こんな結果になるなんて思いもよらなくて。
『わたしに幸せになる資格なんて、あるのかしら』。
そう返した女の子は、けれども少しだけ、さっきより嬉しそうだった。その微かな表情を見て捉えたとき、ああこの子は大丈夫だと、思ったのに。
きっといつか、己の幸せを求めることができると、思ったのに。
強い彼女。強すぎる彼女。
お願いだから、自分は居なくなってもいいなんて、思わないでくれ。
細い身体を囲う腕に更に力を篭めた。痛みを感じるほどに、強く強く、抱きしめる。
このまま閉じ込め続けることができないことはわかっている。でもせめて今だけは。
「・・・・・・大丈夫だ、ティナ」
貰った言葉を、彼女に返す。
貰いっぱなしは、やっぱり申し訳がないから。彼女の最後の支えに、なれたらと思うから。
「ティナは必ず俺が守るから。絶対に」
何度、似たようなことを言っただろう。
はじめは偽り。二度目は、後悔。
今は、願い。祈り。そして決意。
決して終わらせはしない。腕の中に感じるこのぬくもりを、幻にはさせない。幸せな記憶だけでなく、仮初の命などではなく、ただ明るい未来を、この少女に与えたい。
絶対に、消えさせたりはしない。
少し驚いたように、数度瞬きをして。それから鏡のなかで、くしゃりと彼女の表情が歪んだ。
「・・・・・・・・・・・・ありがとう。ありがとう、ロック」
それはきっと、今日はじめて、彼女が彼のことばに答えてくれた一言。彼の想いを受け入れて、彼の想いに返してくれた、奇跡のような一言。
ふわ、と、花の香りと共に、ティナはこちらを振り返った。最後の朝、最愛の人に髪を結ってもらうことを望んだ、覚悟を決めた少女の面影は、既にない。そこにあるのは、いつかと同じ。自分も幸せになっていいのかと問うた、女の子のものと同じ。
――皆のためなら、どうなってもかまわない。
けれど、少しだけでいいから、生きようと思っても、かまいませんか?
綺麗な、透明な雫。両の瞳から溢れかえり、零れ落ちるなか、それでも彼女は笑っていた。
「わたしも、ロックを守るわ」
嗚咽に混じって、彼女はとても優しいことばを口にした。
またいつでも髪を結んでやるからな、と言うと。
それじゃ、明日もやってね、と彼女が笑った。
ただの受け答えにすぎなかったかもしれない。ただの社交辞令にすぎなかったかもしれない。でも彼は、彼女の口から、「明日」ということばを聞けたことに、途方も無く安心した。
来ないかもしれない明日。せめて、悔いだけはないように。
終わりの一日が、はじまる。
FIN
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改めまして・・・・・・はじめまして。アロエと申します
こちらのサイトには長らくお世話になっておきながら、ご挨拶が遅れたことをひっそりお詫びいたします
・・・・・・正直、一歩を踏み出す勇気がなかなか出なかっただけなのですが。今回我らがティナ子の誕生日ということで、こそこそと小説を投稿させていただきました
長ったらしいうえに薄暗く、しかもオチを知っているとちょっぴりマヌケな話ですが、祝う気持ちはホンモノです(祝えているのか?)
ではでは、お目汚し失礼いたしました