「感情を取り戻したのか」と、あの人は言った。
しかし、ティナにはよくわからない。自らの出生の秘密を知り、自分の血の制御方法を学び、確かに彼女は様々なものを手に入れ取り戻した。けれどもそのなかに、「感情」と呼ばれるものがあったのかと言われると、そうではないと彼女は思っていた。
ティナは今まで色々なものを失っていた。
けれど、感情を失ったことは無かった。
確かに操りの輪から解放されたあの時、彼女には感情が乏しかった。しかし何も感じず、何もわからなかったわけではない。おそらく、表現が上手くできなかったに過ぎない。彼女は追ってくる足音に怯え、覚えのない罪に胸を痛め、自分はどうしたら良いのかと悩むことができていた。手を差し伸べてくれた人に、いつしか返す笑顔も生まれていた。
だからきっと、取り戻したのではないとティナは思う。もしそう観られたというのなら、取り戻したのではなく、成長した、という言葉のほうが正しいのだろう。記憶を失ったことで感情を失い、真実を知ったことで感情を取り戻したのではない。帝国という檻で自我を封じられ感情を封じられていた彼女が、時に自力で時に彼や彼らに導かれて世界を知った、その結果が今のティナ・ブランフォードだ。あの雪に閉ざされた町から、彼女は再び生まれたのだ。
たくさんのことを学んだ。たくさんの感情を知った。悲しみや憂い以外の感情を、彼が教えてくれた。ティナはそんな彼を、彼らを、とても特別な存在だと感じていた。相手を特別に想い、大切に想う、その感情のほんとうの意味や名前はまだわからない。けれど彼と共に居れば、この感情もまたいつかわかるようになるのだろうと思っていた。
そうなるだろうと、そうなればいいと、ティナは思っていた。きっと、ずっとずっと、心の奥底で。
最初に見えたのは、まるで水のなかから見たかのように、ぼやけて姿形がとても曖昧な茶色だった。
それが対象のせいでも環境のせいでもなく、自身の視力と脳のせいなのだと気付くより早く、強い痛みが全身に走る。意識が飛びそうになる、が、痛みでまた蘇る。悲鳴を飲み込んだ拍子に、ヒュウと喉が鳴った。
「・・・・・・、起きた。起きたよ、カタリーナ!」
すぐ傍で甲高い声が上がり、ただでさえくらくらと意識が定まらない彼女の頭をより揺さぶった。いや、それとも今の声はとても遠くだったのだろうか。それすらも今のティナにはわからず、はっきりとしなかった。
あまりの痛みに再び閉じた目を、ティナはなんとかこじ開ける。より意識が覚醒に近付いたからか、さっきより視覚も少しは治っている。目の前には、茶色い天井が広がっているのが見えた。どうやら彼女はどこか柔らかいものの上に仰向けに寝転がっているようだったが、痛みが身体を支配している今、他の感覚はあまりはっきりせず、実感はできなかった。
「あなたたちは、外に出ていなさい」
「えーっ」
「おねえちゃんをみてたのはわたしだよー」
「お姉ちゃんは、怪我をしていて大変なの。だから、我慢して。ね?」
何人かの会話がどこからか聞こえてくる。そのどれもが聞き覚えのない声だ、と考えられる程度には、ティナの思考能力も徐々に回復していた。
(・・・・・・誰・・・・・・・・・・・・?)
いや、それよりも優先すべきは、今の自分の状況の確認なのだろうか。身体の痛みと朦朧とした頭では、なかなか考えが纏まらない。
自分が誰か、なのかは、わかる。いつかのように、記憶のどこかが欠如しているという意識は、今のティナには少なくともなかった。
なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。そしてなぜ、自分は怪我をしているのだろう。それが、なかなかはっきりしない。忘れたというほどではなく、脳が求めている記憶になかなか追いつかないといったイメージだ。ここまで、身体の自由が一時利かないほどの大きな怪我をしている理由とは、いったいなんなのだろう。
(・・・・・・・・・・・・みんなは)
みんなは、どこにいるのだろうか。
「気がついた? 喋れる?」
「・・・・・・・・・・・・っ」
首を動かし、枕元を覗き込む人物へと向く。まだ少し幼さの残った顔つきの、少女がそこには居た。年はおそらく、ティナと同じか少し下くらい。声と同じく、やはり外見にも覚えはなかった。けれど少なくとも、軍人の類ではない。どう見てもごくごく普通の町人にしか見えないこの少女は、ティナに危害を与えるような人物ではないだろう。
「み・・・・・・」
「え?」
「みんな・・・・・・は・・・・・・・・・・・・?」
最初に、聞きたいと。知りたいと思ったのは、そのことだった。
自分の怪我の理由など後で良い。ここが何処かだなんて、どうでもいい。それより、何より。徐々にはっきりとした意識を取り戻しつつあるティナは、一心に求めた。
「みんなは、どこ・・・・・・?」
口を開くだけでも、苦労をした。声を出すなんて久しぶりだから上手くいかず、とても舌がもつれ音も掠れてしまった。それでも、聞き取れる程度の言葉にはなった。
さっと、少女の表情が変わる。目覚めた相手を気遣い、その目覚めを喜んでいた少女は、途端に悲しむような目になった。嫌な想像をするには、それだけで十分だった。
「・・・・・・っ!」
「だ、だめよ、動かないで! あなたの怪我、とても酷いのよ?」
まだまだ動けるはずなどないと思っていた。酷い痛みがあちこちにあって、もうどこが痛くてどこが痛くないのかなんて、わからない。けれど、ティナは身体を起こした。そして、部屋を見回した。
とても小さな部屋だ。居るのは、彼女とティナの二人だけ。ひとつだけある出入り口のドアは閉ざされていて、外の様子まではわからない。
「待って! ・・・・・・あ、あのね」
このままでは、ティナが無理にでも歩いて部屋を出て行くとでも思ったのかもしれない。事実、ティナはベッドから降りようと足を下ろしかけていた。
迷いながらも口を開いた少女を、じっとティナは見つめる。睨んではいない。ただ、救いを求めるような、奇跡を願うような瞳で見つめる。
「・・・・・・・・・・・・あなたは、ひとりだったの。ひとり、海辺に流れ着いていたのよ」
その言葉が彼女に与える、衝撃を。
少女も予想していただろう。
しかし、現実は、少女の予想より、もっともっと酷かった。
頭が真っ白になる、とよくいうけれど。そうではなかった。代わりに、ティナの脳裏にはたくさんのことが一気に蘇った。自分の怪我の原因。自分がこんな場所に居る理由も、そこで理解した。
目覚めてはじめて、ティナは部屋にひとつだけある窓を振り返った。外はとても薄暗い。しかし夜ではない。紛れもない、昼間だというのに。
暗い空。薄い空気。枯れた緑と、広がる砂地。
世界は。彼女は。彼女たちは。彼は。
(・・・・・・うそ)
ただ。心のなかだけで、その言葉がおちていく。
彼女がこうして生きている、その理由がわからなかった。
彼女は最後まで、飛ばなかった。一人変身して、仲間を残して逃げることなんて、絶対にしなかった。彼に怒られても、拒否をした。
だからわからない。なぜ彼女が。なぜ彼女だけが。なぜ彼女ひとりが。
ぼうっと、惚けたように外を眺める。ただ、色々なことを考え、ただ、「なぜ」と思いながら。
視界の端で俯いていた少女が、はっと顔を上げるのが見えた。そして次に、彼女はとても悲痛な表情をした。その姿が、なぜかまた曖昧になる。視界が歪み、世界がまた見えなくなっていく。また、意識が朦朧としてきたのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・良い、のよ?」
ぽつんと、少女が呟いたようだった。はっきり見えたわけではないけれど、この部屋にいるのは彼女だけなのだから、発言者はおそらく彼女なのだった。
「・・・・・・・・・・・・?」
何を、言っているのかがよくわからないので。ティナは彼女を、名も知らぬ少女を振り返って、小さく首を傾げる。
「そんなに、我慢しないで。泣いて、いいのよ?」
少女は言った。震えた声で。きっと、今にも泣き出しそうな表情で。
いや、でも。
泣く、って。なんだろう。
それって、どんな感情だっただろう。
わからない。なにもわからない。教えてくれたひとがいないから。もういなくなってしまったから。
眼が熱い。焼けるように熱い。だから、もう何も見えない。そのとき、ただ誰かにぎゅっと抱きしめられたことがわかった。おそらくはあの少女なのだろう。友人を悼むような、母親が子供を癒すような、そのぬくもりは、ティナにとってはじめてのものだった。
あたたかい腕のなか、それは求めていた人のものとは違うぬくもりではあったけど、それでもティナは少しだけ心落ち着いたのを感じた。誰かに抱かれると、誰かに手を握られると、ひとりではないとわかる。それをはじめて知ったのは、もう随分と昔のこと。
(・・・・・・ひとりはいや)
以前は平気だった。でも、今はもう駄目なのだ。
(・・・・・・・・・・・・ひとりはいやなの)
ひとりではない生き方を知ってしまった、誰かと居る幸せを知ってしまったティナ・ブランフォードは、もう感情を封じられた人形には戻れない。
(みんながいないと。あなたが、いないと)
声ひとつ漏らさず、ただただ涙を流し続けるティナは、まるで人形のように少女の眼にはうつった。けれど、放さぬよう離れぬようにと、人のぬくもり求めてしっかりと抱きしめ返してくる彼女は、決して人形などではないと少女にはわかった。
FIN
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久しぶりに投稿させていただきました、アロエでございます
何かまた投稿したいなぁと思い続けて数ヶ月、ようやく勇気が沸きました
前回がとても強いティナのお話だったので、今回はティナの弱さみたいなものを書きたいと思い、こんな物語にしました。気付けばロックの出番がとても少ないというか無いというか名前すら出てない話になってしまい、全国六千万のロックファンの皆様にとても申し訳ないです(?)
お目汚し失礼いたしました。ではでは